「一方その頃、呉の広能組では」独特のナレーションと音楽の流れる中「こんな〜」「あがなこすったれ」「知らんのう」「何しちょるんか」等の広島弁が全国区になったのはこの映画のおかげだろう。いまだに広島弁をきくと頭の中に♪バッパパッパ♪と、あのテーマが流れて潜在的に(怖いな〜)と感じるのは私だけではないと思う(笑)。

73年1月の第1作「仁義なき戦い」から「広島死闘編」「代理戦争」「頂上作戦」「完結編」の計5本を74年6月までの約1年半で撮っているのが、今思うと凄い!。任侠ものが少々飽きられてきた時代、「ゴッドファーザー」の大ヒットの影響から作られたのであろう本第1作は、空前の大ヒットになり、かくいう当時ガキんちょの私も任侠、義理、人情がこの手の映画の美学だと思っていただけに、この映画の正に「仁義なき」戦い!、それぞれの私利私欲と思惑の中命を落とす多くの若者達や、一人貧乏クジばかりひく広能昌三(菅原文太)の姿に(この世界は実際はこうなのだろうな〜、怖いな〜嫌だな)としみじみ考えさせられ、なかなか青少年にいい影響を与えた映画であった(笑)。
深作監督は、徳間書店「仁義なき戦い/浪漫アルバム」の中で、この映画を撮るにあたって「どうも義理人情だの勧善懲悪だのがいちいち咽にひっかかる感じでね。もちろん自分の中に暴力的な生き様を否定できない感覚がある事はかなり強く意識していました。戦争下という荒々しい時代を、子供の頃からくぐりぬけてきましたからね」と語っております。この映画はそれまでの任侠映画はじめとしたヤクザ映画の常識、形式を全て壊した画期的な映画だったのでした!。

が!、実はこの今でも「名作」と言われる映画が最初に上映された時、まだ菅原文太は一般的には無名であり、松方弘樹も名優!近衛十四郎の御子息程度の認識しか一般的にはなく、多分、金子信雄以外では60年代から東宝「若大将シリーズ」で活躍していた田中邦衛と、同じく日活で大活躍していた川地民夫の方がネームバリューがあったと思いますし、またこの映画の最初のロードショーの時の併映はピンキーバイオレンスの「女番長」シリーズであり、それほど大きな期待をこの作品に東映側もよせてなかったのではないか?と思われますね〜。

シリーズ「頂上作戦」ラストでの、逮捕され手錠ににつながれた武田明(小林旭)と雪駄履きの広能が、お互い今回の抗争をボヤく再会シーン、「完結編」ラストでお互いに引退を決め、武田が広能に酒を酌み交わす誘いをする時の広能の「そっちとは飲まん。死んでいったもん達に申し訳がたたんからのう」の台詞が私は大好きである。名場面!。
このシリーズのポスターではじめて名前がのった、大部屋俳優の川谷拓三は全シリーズで警官、学生含め6人の役で登場し(笑)、松方弘樹と八名信夫は3回別人で登場し、梅宮辰夫、北大路欣也、渡瀬恒彦、小池朝雄、三上真一郎がそれぞれ2回ずつ別役で登場してます。木村俊恵、渚まゆみ、梶芽衣子、池令子、中村英子、野川由美子の女優陣も、男どもに抗争を引き起こさせるような絶妙な素晴らしい演技をしているのも、つけ加えておこう。


当時の青少年も「仁義なき戦い」だった(笑)

このシリーズが大ヒット上映していた時期が、かぐや姫の「神田川」や井上陽水の「心もよう」がヒットした時代と同じなのは、今の若い方には意外かも知れない。方や「愛と優しさ」が売りの和製ふぉーくブームの、これから頂点に向かおうとしてる時期に、方やバイオレンスである。70年代が「愛と優しさの、和製ふぉーくの時代」なんて大嘘!(笑)。それは単なる1ムーブメントであり商業的な成功であり、街は今よりパンチパーマやリーゼントがうろうろしていたし、肩で風きっていきがって歩いている奴多かったし、喧嘩や恐喝なんて日常茶飯事だったし、喧嘩をふっかけるのが目的で街に繰り出す奴もやたら多かった!。私達の世代は「あしたのジョ−」「男一匹がき大将」世代なのである(笑)。

が、今のようにすぐ新聞に出るような事もなく、余程の大事件にでも発展しなければ、そんな事はさして珍しい事ではなかった。当時の青年が盛り場やディスコに繰り出すというのは、それだけの覚悟が常に必要だったし万が一恐喝にあっても札はとられたくないので、靴下にしまってから出かけなければならなかった(笑)。「おまえ、ちょっとそこで飛び跳ねてみ?ジャンプしてみいよ?」この台詞を聞かされた当時の若者は多いんじゃない?(笑)。ジャンプするとポケットの小銭の音が鳴るからね。やっぱり当時は和製ふぉーくファンやってる方が、今思えば平和だったかな?(笑)。

和製ふぉーく少年とは言わないまでも、当時この映画が上映されていた新宿東映の傍には今も健在の「ローリングストーン」や「サブマリン」といった、ロック少年御用達のロック喫茶があり(開拓地はこの頃閉鎖したかな?)、ロック=不良のイメージが昔から強かったが、意味もなく喧嘩ふっかけて歩く剃り込みパンチパーマのツッパリがそういう店にはいなかったので、比較的ロック喫茶は安全地帯だったような記憶がある(シンナー臭いの多かったけど。笑)。今はなき東口の純喫茶「マンションハウス」や、歌舞伎町の「王城」、三越裏の「ハイハ」そして「マイアミ」等は、ウエイタ−も客もツッパリばかりで、常に一触即発の空気が漂っておりとてもくつろげるソレではなかった(笑)。同じ純喫茶でも紀伊国屋の隣のビルの地下にあった「カトレア」は、まだ従業員と客層の年齢層が少し上で質が良かったかな?。今思えば随分昨今のサービス業は従業員教育が行き届いたものである(笑)。
今もいるのかも知れないけど、当時は今のアルタ周辺(当時の二幸)には、まだまだ所謂ボン売人(トルエンを売る人)がウヨウヨいて、今もヤバイと言われる新宿だが、当時は今とはかなり街の雰囲気が違ったな〜。


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